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140号 感話:人生を受け止めていく力 [ 平成28年8月5日 ]

お盆とお墓参り

140号 感話:人生を受け止めていく力  暑い夏がやってきました。8月には夏ならではのさまざまな行事があります。1日は盂蘭盆会(うらぼんえ)法要です。71年前のこの日長岡大空襲がありました。「盆参の夜」と記憶している方も多いと聞いています。今年も空襲が始まった時刻午後10時30分に犠牲者追悼の梵鐘をつきます。2日、3日は長岡まつり花火大会です。今着々と桟敷席が作られています。私は、2年続けてチケットが取れたので今年も取れると安心していたらダメでした。そんなことをつぶやいたら一緒にどうぞと誘ってくださる方がおられました。今年は三尺玉がより近くで見られます。

<写真>8月2日の長岡まつり花火大会 正三尺玉(撮影:鷲尾顕一)


140号 感話:人生を受け止めていく力  先般の日曜法座で7月の法語「往くも還るも他力ぞと ただ信心をすすめけり 往還廻向由他力  正定之因唯信心(赤い聖典p25)」を味わいました。お盆になると魂が帰ってくるといい、日本各地で迎え火や送り火という風習が残っています。京都・大文字山の送り火はお盆の観光行事としても有名です。でも浄土真宗では仏に成る(往相(おうそう))とすぐに私たちの元に戻り来て(還相(げんそう))いつも寄り添っておられますから、殊更(ことさら)お盆に帰ってくるとはいいませんし、迎え火、送り火もいたしません。還相という考え方は浄土真宗特有のものかもしれません。往相も還相もすべて阿弥陀さまのはたらき(他力)で、私たちはただお念仏してそれに応えればよいのです。
 とはいってもお盆の13日には、お墓がお明かし(ろうそく)とお花で飾られます。1年に一度の明かりの祭典です。それぞれに亡き人を偲び、いただいたご恩に感謝して手を合わせます。そこでお墓参りをされる皆様に提案です。今年のお墓参りは「しんじんのうた」をお勤めされませんか。聖典とお念珠そしてできるならお仏壇のおりん(チンとならすあのおかねです)もご持参して。ここそこでご家族で「しんじんのうた」がおつとめされる景色は想像するだけでもすてきです。「われ今幸いに・・・」からはじめ、しんじんのうた(1)、お念仏、「如来大悲の恩徳は・・・」とお勤めします。約7分です。読経は坊さんの独占行為ではありません。どうぞ勇気を出して実践してみましょう。お勤めすることでみ教えに出遇えた喜びが心から湧いてくることでしょう。本堂玄関に貸し出し用おりんも用意しておきます。もし恥ずかしいと思われる方がおられたらお声かけください。お手伝いいたします。


境内草取りの御礼

140号 感話:人生を受け止めていく力  7月23日(土)朝6時から恵以真会主催の境内草取りが行われました。6時前から作業が始まり、それまで草ボウボウだった境内が見違えるようにきれいになりました。これで盆参を迎える準備がひとつ進みました。恵以真会会員はじめOBの方々にもたくさんご協力をいただきありがとうございました。


感話 人生を受け止めていく力

140号 感話:人生を受け止めていく力  「煩悩具足の凡夫であるが故に、老病死に苦しみます。なくならない様々な苦しみを抱えた私が、それを機縁に阿弥陀さまの教えに出遇い、人生を受け止めていく力をいただく。その受け止めていく力そのものが「南無阿弥陀仏」だと親鸞聖人は教えてくださいます。」(中川清昭:本願出版社刊 冊子:お盆p9より)
 「み教えに学ぶ集い」で担当の専徳寺ご当院様が、お釈迦様が出家された動機についての次の言葉を紹介してくださいました。「愚かな凡夫は、自ら老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに、老衰した他人を見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。我もまた老いゆくもので、老いるのを免れない。自分こそ老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに、老衰した他人を見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。 私がこのように観察したとき、私の青春の昂ぶりはことごとく絶たれてしまった。」同じことを、病について、死について語られます。
 これは有名な四門出遊のことです。お城の中で何の不自由もなく暮らして育った若きシッダールタ王子が、お城の外に出て老人と会ったときに語られたのです。「老いる」ことは実に自然なことであるのに、「老い」が嫌悪の対象になっているのです。老いた姿は見たくないと思い、自らがそんな姿になりたくないと願うのです。病気になりたくないと願い、病気になったときにはなんとか治りたいと願います。そして死にたくないと思っていた死にだれもが行き着くのです。


140号 感話:人生を受け止めていく力  正信偈に曇鸞大師が長寿を説いた仙経を焼いてしまうお話しが載っています(赤い聖典p24)。元々病弱で勉強も十分できなくて悩んでいた曇鸞さまがやっと長寿の仕法を手に入れて意気揚々としていました。そこに三蔵流支(るし)というお坊さんが現れます。「長寿といったところで50年の命が100年に延びるくらいのことであろう。仏法は限りなきいのちに出会えるのだ」と聞かされて忽ち(たちまち)のうちに仙経を焼き浄土教に帰依されたのでした。
 「人生を受け止めていく力が南無阿弥陀仏」とはどういうことでしょうか。
 十方微塵(みじん)世界の 念仏の衆生をみそなはし 
   摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (浄土和讃)
 喜びも悲しみも「ナモアミダブツ」。苦悩が重ければ重いほど阿弥陀さまのお慈悲の深さがいただけます。喜びが大きければ大きいほどお慈悲の温もりが感じられます。天秤ばかりがちょうど釣り合うように。私たちがお浄土に向かって歩む道はこの支えがあって安心できるのです。かく言う私は、老いも病いもまだ本当の試練をいただいていないのでこれからがご聴聞の正念場かもしれません。合掌


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