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74号(感話:遠く宿縁を慶べ) [ 平成23年2月4日 ]

豪雪になってしまった

74号(感話:遠く宿縁を慶べ)  寒中お見舞い申し上げます。大寒が過ぎればもうすぐ節分、そして春の足音が聞こえてくるはずです。今年の冬はボディーブローのような雪降りでした。猛烈な雪はなかったのですが、天気予報で晴れマークがまったく見られないままで1月が終わりました。実際には日が差したこともありましたが一日晴れわたることはありませんでしたね。屋根の雪はじわりとその重みを増していき、雪下ろしに至りました。昨年の同時期のてらだよりで5年ぶりの雪下ろしと書いていましたが、今年は1月20日と29日の2回もすることになりました。町内のご門徒さんのお陰です。ありがとうございました。
 写真は29日の雪おろしです。屋根からおろした雪は屋根の高さになりました。雪降りは難儀ですが、雪の白さと美しさに感動することもあります。


ロータリ除雪車で雪の壁

74号(感話:遠く宿縁を慶べ) 境内西側の市道です。2月3日は春の日差しになりました。除雪車が道を空けてくれました。雪の壁が雪の多さを物語ります。
平成になってからはもっとも積雪が多くなりました。2月1日の朝にはきっと1m80cmの積雪がありました。


金子みすゞの詩

74号(感話:遠く宿縁を慶べ) 「木」
お花がちって
実がうれて、

その実が落ちて
葉が落ちて、

それから芽が出て
花がさく。

そうして何べん
まわったら、
この木はご用が
すむかしら。

 6月5日に託念寺親鸞聖人750回大遠忌法要を厳修し、金子みすゞコンサートを開きます。金子みすゞさんはどんな思いでこの歌を詠んだのでしょう。21歳でこの詩を書き、5年後、その才能あふれる若いいのちを終えなければならない日がやってきます。みすゞさんが抱えていた現実の厳しさを思わずにおれません。



感話 遠く宿縁を慶べ

74号(感話:遠く宿縁を慶べ)  今年の法語カレンダーの表紙にあることばです。今月の法語「遇いがたくして いま 遇うことを得たり 」、1月の法語「聞思して 遅慮することなかれ」も含め、3つの法語は、親鸞聖人の主著「教行信証」の冒頭にある次の文から引用されています;
 噫、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴(きょうりゃく)せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
親鸞著『顕浄土真実教行証文類』「総序」
 声を出して朗読すると味わいを感じるご文です。今私が人としていのちをいただいていることも、仏法を聞かせていていただいていることも、過去をはるかに振り返って本当に不思議なご縁というしかありません。今こうして仏法に接する境涯にあるときに、しっかりと仏法を聞き、それを慶びなさいよ、今のこの機会を逃してしまえばもう永遠に仏法にめぐり会うことはできません。「み教えを聞くことが大切なことは分かるのだけれど、今は忙しすぎる。もう少し時間的な余裕ができたら聴聞する」と心の中で自答している方も多いでしょう。それを見越しておられるように「聞思して 遅慮することなかれ」と諭されています。「そのうち そのうち」と思い続けてあっという間にいのちを終えてしまうのです。「一生すぎやすし」「今日とも知れず 明日とも知れず」の人生です。


74号(感話:遠く宿縁を慶べ)  それにしても「遇う」という世界は不思議ですね。私たちの人生はどれほど自分の意思でコントロールできるものなのでしょうか。先般「み教えを学ぶ会」(元上組で毎月開催されている学習会)で参加者からこんな質問が出ました;
 本山で帰敬式(生前にご門主様よりおかみそりの儀式を受けて法名をつけていただくこと)を受けてこられた知人に聞いた話しです。帰敬式のあと法名が人数分用意してあって、係の人にそれを渡されたのです。自分のためにこの法名がというより、くじ引きのような形で適当に配られたのです。こんなことならわざわざ帰敬式を受けるのではなかった、ガッカリした。帰敬式はこんなものなのですかと。
 「適当に配られる」等は少し誇張があったのかも知れませんが、私のために私のことをよく知ってくださった後にご門主様が法名をつけてくださる訳ではないことは事実です。これを「いい加減なつけ方」と思う方も少なくないでしょう。そんな意見も考慮してか数年前に法名の内願制度ができました。お手次ぎ寺院(菩提寺)の住職を通して、つけてほしい法名を願い出るのです。私も漠然とその方がいいかなと思ってもいました。でもこのお話をお聞きして、初めて気がついたのです。自分にいただいた法名はたまたま(偶々)その法名にあたったという感じですが、私たちの人生はそのようなたまたまの連続で作られてきているのではないでしょうか。「あう」という字はいくつかありますが、親鸞聖人がよく使われているのは「遇う」です。偶然の偶に似ていますが「しんにょう」です。道でたまたま遇うということでしょう。人生の道でたまたま遇った人との出遇いを大切にしていくということです。本山から帰敬式でいただく法名はその象徴です。いただいた法名のいわれを聞いて、それを機縁としてそのたまたまを意義づけていくことも大事なことではないでしょうか。出遇いを慶びとする生き方ができたら仕合わせです。合掌


つらら

74号(感話:遠く宿縁を慶べ)
本堂屋根にならんだつらら


イメージ:ボタン

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